三坂神社

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三坂神社について

三坂神社

式内社 三坂神社
(旧社格 式内社 周防國佐波郡御坂神社 県社)

御祭神

主祭神大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)、事代主大神(ことしろぬしのおおかみ)
配 祀道反大神(ちがえしのおおかみ)
合 祀素戔嗚尊(すさのおのみこと)、大歳神(おおとしのかみ)、埴山姫命(はにやまひめのみこと)

御由緒

  • 創立の年月日は詳しくはわからないが、他の文献から大体1300年前と推察される。
  • 927年にまとめられた「延喜式神名帳」(朝廷から官社として認識された神社)によれば、「周防国十座、佐波郡六座御坂神社」とある。
  • 「周防国名所私記」に「三坂神社は玉祖郷の内、劔神社より二里ばかり川上の山中に在り」とある。
  • 「東大寺正倉院御文書」に「天平十年周防国正税帳に御神命ありて佐波郡三坂神社に春秋祭祀料、又神社改造の雑用等を充て奉らしめ給ふ」とある。
  • 平安時代の歴史書の「続日本後紀」に「承和六年(839)閏正月周防国無位三坂神に従五位下を授け奉る」とある。
  • 平安時代の歴史書の「三代実録」に「貞観九年(867)三月周防国従四位下三坂神に従三位を授く」とある。
  • 長寛勘文「天慶三年(940、平将門のころ)二月諸神社位記請印の事あり、去る承平五年(935)海賊を平ぐる事を十三社に祈り申す。三坂神に正三位を加ふ」とある。
  • 「源平盛衰記」に「永元年(1081)二月神位一階を増し奉らる。永治元年(1141)九月に、治承四年十二月に、元磨二年三月に各一階を増し建て奉らる」とあり、神社における神階の最高位の正一位となる。
  • 「萬葉集」に「千早振る神の三坂に幣奉り祝ふいのちは母父(おもちち)がため」とあり、今も古式奉幣の儀のときに三唱している。
  • 「防長風土注進案」十一に「足利尊氏西國に走る途次、三坂神社に参り久しく籠もりて開運を祈願し神社の北の所で能楽を奏し御神意を慰め奉り(今も「おのう原」の地名あり)神馬馬具を献納せり」とある。参道に敷いてある石畳は尊氏が敷いたという。
  • 上と同じ十一に、「豊臣秀吉公が三坂神社に参り五色の吹貫(ふきぬき、旗や吹流しのこと)等を献納し、数日当社の釣鐘を借りて用い九州博多まで持ち帰り過ぎて、後に石州津和野永明寺に返した」とある。
  • 萩藩主第4代毛利吉廣公が二の鳥居を献納、銘に「延喜式御坂神社(中略)大江侍従吉廣元禄十一年(1698)戌陽月」とある。
  • 明治6年郷社に列せられる。明治17年一の鳥居建立(氏子奉献)、明治35年神殿銅板葺替え。
  • 公爵毛利元昭閣下が大正4年4月20日に参拝され、拝殿に扁額を献納される。
  • 大正8年4月5日、県社に列せられる。
  • 昭和20年終戦の年12月、国教分離により社格削除される。
  • 昭和28年、宗教法人制となり、氏子又は崇敬者によって維持運営されることになる。
  • 昭和30年12月、式年大祭(1225年祭)を行う。しゃぎり(笛・太鼓・かねなどで奏する囃子)等で賑わう。
  • 昭和33年、社号碑(題字揮毫 初代町長伊藤美樹三氏)同35年演舞場建設、岸信介元首相参拝される。
  • 昭和54年、神木と称えられた「オオマツ」が枯れ、伐切売却。その年拝殿・中殿・釣殿を銅板にし、神殿・中殿の壁を修理した。
  • 昭和55年11月、式年大祭(1250年祭)を行う。神徳碑を建立し、その下に奉納写真名簿のコピーを埋納した。
  • 平成3年9月、台風19号により建物・樹木に甚大な被害を受けた。
  • 平成7年3月、終戦50周年を記念して氏子から献納された石で参道を改修した。「平和の礎」と呼称する。
  • 平成14年から社務所改築の計画により、氏子中の奉賛にて平成16年4月竣功した。駐車場も完成。
  • 平成16年4月、拝殿の塗装を行う。
  • 平成17年10月、式年大祭(1275年祭)を行う。
  • 平成27年6月、終戦70周年記念として廻廊の塗装、便所の改修を行う。
佐伯治典名誉宮司 謹白

御祈願

全国的に見ても比類のない「弾除け」(危機回避・災難除け・武運勝ち運)のご神徳の神々を奉斎する三坂神社では、個人様から団体様、出張祭典まで、様々なご祈願を承っていおります。また、写真と縁の深い当神社では、写真のお祓いとお焚き上げ(写真供養)を承っております。また、人形や物品のご供養も受け付けております。

宮司 江端希之

氏子集落

  • 岸見地区(樋ノ口、土井、徳行、麻生、野尻)
  • 中山地区
  • 久兼地区(片地山)
  • 奥畑地区(樋渡、本畑、奥麻生、赤山)
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